Storyストーリー
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漫画家を目指す草介は、絶滅したニホンオオカミを題材に漫画を描いているが、肝心のオオカミをうまく描けず前に進めない。ニホンオオカミの痕跡を求めて入った山中で、草介はレトロなカメラを構えた少年と出会う。少年は「オオカミは、多分まだここにいる」と意味深な言葉を残して去っていく。
そんなある日、草介はバイト先の工事現場で、動物の頭蓋骨の一部らしきものを見つける。漫画のヒントになるかもしれないと考えた草介は、骨をこっそり持ち帰り調べるが、その正体は分からない。気になって仕方ない草介は、誰もいない夜の工事現場に向かう。すれ違う街の人々は冬の花火大会へと繰り出している。 更なる発掘を続けていると、飼い犬のシロを探しに来たミドリと遭遇するが、驚いた彼女は転倒し足を怪我してしまう。歩けないミドリを、彼女の家族が営む写真館まで送り届けると、そこはいつも見る東京の風景とは違っていた…。
Commentsコメント
この青年の将来がどうなるかはわからないが、描くという行為と自分の人生が、一生に一度でもリンクすることがあるならば、それは漫画を描く者として幸福だ。
現代と過去が、ある日つながる不思議な瞬間があるなと感じる時があります。
それは、日々の何気ない生活の中にひっそりと息づいていて、この世界はすべて繋がっていることを感じざるをえない気持ちになります。
金子監督の「リング・ワンダリング」は、美しく雄大な自然と様々な不思議な繋がりを温かく、優しく包み込むように表現した作品だと感じました。
刹那的で温かくて、決して寂しいものではない。
そんなことを感じながら、拝見させていただきました。
妖しく美しい怪異譚!
猟師が獲物を狙い撃つ様は、カメラマンが被写体にレンズを向けてシャッターを切る様を想像させる。
それは自然界から芸術を切り抜こうとする監督自身の姿なのかもしれない。
この映画の監督は精霊的な自然を発見し、それを映像化することに最も力を注いでいるようにみえる。
つまり、監督こそがだれよりも狼に翻弄され、未踏の領域に到達したと言えるだろう。
子どもの頃、黄金色の大地に寝転んで自分の身体の中にある生まれる前の記憶と対話した事がある。
だれにも邪魔をされない平和で孤独な創造の世界。
「リング・ワンダリング」との出会いは私の記憶と結びつき、豊かな景色と共に、進むべき未來へ導いてくれました。
ありがとう。忘れてた。忘れてはいけないものを私は忘れていたのです。
前作でも思っていたことが『リング・ワンダリング』を拝見し確信に至りました。
金子雅和監督の最大の魅力はその圧倒的なロケーション力にあると。
それも、当たり前の景色をそれらしくデザインしてみせるような類のものではなく、間違いなく膨大な時間と労力をかけ見つけ出され、それと同等のエネルギーをもって切り取られたであろうロケーションのひとつひとつが眼福でした。
最高の景色を探そうとする金子監督はニホンオオカミを求め歩く登場人物と同じ目をしていたに違いない。
時間は巻き戻せないしやり直す事は出来ない。 しかし確かにそこにいたし、在った。 憶えている事は出来るし、今をどうするかの連続なのだ。
端正な劇中画。特殊な描画法は版画の如く直接性を弱め、絵と二重写しの像を生む。
映画初見。物語から、映像から突然に引き剥がされ何かを見る瞬間がある。
ストーリーを知らぬ身が映画を踏み惑い一度きり出会う『映画の幽霊』。
時空を超えたり、劇中マンガの物語に出入りしたり、幾層もの世界に誘ってくれて、1作に映画数本分の刺激が満ちている。ナチュラルで、スピリチュアルで、ドラマチック。鮮やかなエンディングにも脱帽!
物語に感動し、泣き笑いする時、私たちは映画の素晴らしさを感じます。また、映画を観ていると、私たちはある種の魔法の目撃者となることがあります。映画の魔法。それは素晴らしく、しかし稀にしかできない体験です。そして『リング・ワンダリング』には、その全てが備わっているのです。
金子監督の映画の中の自然は映像に包まれて眠りたいと思えるほど、実際に見る自然よりも美しいと思っていたのですが、今回は東京の街並みも、またそこにいる人間もまた実際よりも遥かに美しかったです。
絶滅した生き物、叶わぬ夢が支える美しさ。
リングワンダリング状態に陥った私たちにこれからも新しい地図を与えて頂きたいと思います。
草介を演じる笠松将が秀逸だ。写真はじめ、様々な痕跡を巡る旅路は、笠松の相貌へと収斂させる。出来事や歴史は直接描写されず、最終的に笠松の表情という痕跡は、彼の役者としての成長の徴として刻まれた。
私が生まれる前からそこにいて、私が死んだ後もきっと、そこにいるもの達。
自然のものに触れるとき、いつもそれを思います。
この作品の中で出会ったもの達を見てよりそれを実感しました。
昔に会ったあの山や風の音の事を思い出しました。
オオカミとは何ぞや。
オオカミの存在で循環の輪が切れてしまった生態系の形の中で、私たちがその断裂をつなぎ合わせることが出来るのか。
その可能性を想像してみること。草介の身に起きるオオカミとの邂逅をいつか自分自身の体験として実感してみたい。
まっさらな紙に引かれる線や、地層に野生の痕跡を探すまなざしが、静かであればあるほどに、死者のほほえみは瑞々しく、カミの息は温かい。今を生きる鑑賞者もまた、優しい霊たちに抱かれているのかもしれない。
リアルな肌触りを持った摩訶不思議な世界を体験できる傑作。 何度も観て、その異世界を様々な視点で楽しみたい。 記憶と幻想、虚構が集約したラストカットが秀逸。
この映画は、冒頭から崇高なラストショットまで、我々に魔法をかける。
それは感動的な詩情とマジックリアリズムの感覚を持ち、シンプルな作りは古典的風格だ。
そして俳優たちの演技には、物語を実現するための確かな技術と繊細さがある。
『リング・ワンダリング』は、現代の日本社会に木霊する過去からの残響を映し出し、幻想と漫画と現実の織り交ざりを美しい画作りで表現する。
この映画では、複雑で多面的な日本の苦悩に満ちた過去の傷の物語が、演出と演技によって非常に繊細に描かれ、心躍るような体験となっている。
戦時中の記憶を蘇らせようとしているが、本作は戦争映画ではない。
むしろ人間同士の関係を軸としながら、理解出来る限界を超えたものへの思索を、我々に促しているのだ。
三つの時間、時空を超えた恋愛、戦争への反対声明。
静かな語り口だが描かれるのは大きな物語だ。それでいて間違いなく今を撃っている。
金子雅和の現在進行形の到達点であり、そして何より阿部純子の永遠性が素晴らしい。
私たちは漠然とした不安に苛まれながらも、不自由ない生活を当たり前のように生きていて、その豊かさに疑問を抱くことなく日々を過ごしている。
漫画家を目指す若き青年が不思議な人々と出会い紡いでいく物語は、今私たちの生きる場所が尊い命の上にあるということを気づかせてくれた。
笠松将という役者の細やかな芝居に引き込まれ、主人公が辿る時空を超えた物語を追体験した心地よい感覚が残る。
うつる線がみな、生きていた。
いつの時空でも呼吸を止めずに。
過去に、創作物のなかに、そして現在に、迷い込んだのは一体誰だったのか。
言葉を交わすから忘れられなくなり、言葉を交わさないから記憶にこびりついて離れない。
金子雅和はいつだって人、動物、時間に優劣つけることなく対等に見ようと挑戦し続けている。
この闘い方〈映画〉はかっこいい。
幾つかの視座が交叉する。
過去の視座と現在の視座。
人の視座と動物や森の視座。
それらの視座が円環をなす。
そして私は世界に開かれる。
映画は超越的感受性が失われたと嘆く。
それをニホンオオカミの絶滅に重ねる。
時空を超えて出会ったミドリもそうだ。
ミドリ演じる阿部純子の芝居が絶品だ。
未規定性を享楽する笠松将も凄く良い。
ファンタジックな虚構世界をつくり上げながら、 金子監督はたしかに現在をみつめている。 現代社会のあり方へ異議を申し立てる。
進歩や発展という名の下に置き去りにされたものたちに光を当て、
(朝日新聞2月18日付夕刊の映画評より抜粋)
個々の画面が写しとるのは、小さな範囲の簡素なものに過ぎない。
けれど、秀逸な音響、美術設計と創造的な脚本の力で、時空間の軸上に現実を超えた広大で深遠な世界が構築されていく。
これぞ金子雅和映画のマジックだ。
自然に在する精霊を感知できる能力が失われている時世だからこそ、金子監督の豊潤な原色の写真に染み込まれる体験をお薦めしたい。